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第1回:日本人デザイナー、パリで切り拓いた革新の軌跡

日本は、かつて自動車や家電、カメラといった工業製品の輸出国として世界的に知られてきました。しかし近年では、文化そのものを輸出する国としても注目されています。日本の音楽、ゲーム、アニメ、映画、ファッションといった文化コンテンツは世界中で高く評価され、経済的な価値も年々増加しています。

2020年のデータによれば、日本の音楽、映画、アニメ、ゲームなどのエンターテインメント関連の輸出額は約300億ドルに達し、過去10年間でほぼ2倍の成長を遂げました。特にアニメやゲームは海外市場で人気が高まり、Netflixをはじめとする配信サービスを通じて世界に広がっています。

ファッションも例外ではなく、欧米やアジアを中心に注目を集めています。東京ファッションウィークは世界のファッション業界における重要なイベントとして定着し、日本のデザイナーやブランドは国際的な舞台で活躍しています。とりわけサステナビリティやジェンダーレスといった社会的テーマを取り入れたデザインは、世界中の若い世代から支持を得ています。

専門家は「ポップカルチャーを中心とした文化輸出を通じて、日本は新しい国際的プレゼンスを確立しつつある」と指摘しています。アニメや音楽と同様、日本のファッションも世界各地で存在感を示し、独自のスタイルが広く受け入れられています。

第二次世界大戦後、日本人デザイナーが国際的な舞台に現れると、その服や美意識は西洋の消費者やバイヤー、同業のデザイナーを強く惹きつけました。パリで知られる日本人デザイナーには森英恵、高田賢三、三宅一生、川久保玲、山本耀司らがいます。

しかし、非西洋のデザイナーがパリで成功するのは容易ではありませんでした。森英恵がアメリカ進出を語った際、「日本人の服は通用しない」と強い反対を受け、彼女を支えたのは夫だけだったといいます。三宅一生も「日本人がパリでデザイナーになるなんて不可能だ」と周囲から言われたと回想しています。

実際、高田賢三がパリでコレクションを始めるまでは、アジア人デザイナーは存在しませんでした。バレンシアガやスキャパレリのような非フランス人クチュリエはいたものの、1977年に森英恵がオートクチュール組合に加盟するまでは、アジア人が公式に認められることはなかったのです。

当時は「非西洋人がパリで成功するのは不可能だ」という考えが一般的でしたが、日本人デザイナーたちは独自の美意識を武器に国際的評価を獲得しました。伝統的な素材や着物の要素を取り入れた服は、新しい価値観として受け入れられていきます。

とりわけ1980年代初頭、川久保玲と山本耀司がパリで発表したコレクションは大きな衝撃を与えました。非対称、簡素、未完成を強調したそのデザインは従来の価値観を揺るがし、ニューヨーク・タイムズのバーナディン・モリス(1983)は「彼らは異文化から来たというより、まるで別の惑星から来たようだ」と評しています。

現代においても、これら日本人デザイナーたちはパリで重要な役割を担い続け、次世代のクリエイターたちに大きな影響を与えています。

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