第11回:反クチュールというポジション(後編)― パリの美の秩序を揺るがした黒い服
一九八一年、川久保玲と山本耀司がパリのファッションの場に登場したとき、フランスのオートクチュールはすでにかつての中心的な役割を失いつつありました。かつてオートクチュールは新しいスタイルを生み出し、同時に大きな利益をもたらす制度でした。しかし一九七〇年代には、少数の富裕顧客のために作られるクチュールだけでは十分な収益を生み出すことが難しくなり、多くのメゾンは香水や化粧品、アクセサリーなどのライセンス商品によって利益を確保する構造へと変化していきました。そして新しいシルエットや色彩、デザインの革新の中心は、オートクチュールではなくプレタポルテへと移っていきました。
この変化は、ファッションの場における闘争の構造そのものを変化させました。ピエール・ブルデューが分析したクチュール中心のファッションの場では、新人デザイナーは既存のクチュリエの支配に挑戦する存在として位置づけられます。しかし一九七〇年代には、プレタポルテ産業が急速に拡大し、さらにヒッピー文化の広がりとともに「アンチ・ファッション」の思想が社会に浸透していきました。その結果、プレタポルテのデザイナーたち自身がファッションの場における支配的な位置を占めるようになっていきます。つまり、この時代にはすでに「支配的なもの」がオートクチュールからプレタポルテへと移行していたのです。
こうした状況のなかで、一九七〇年代半ばのパリでは新しい潮流が現れます。イヴ・サン=ローランや高田賢三のフォークロア風のスタイルが主流であった時期に、クロード・モンタナ(英語版)やティエリー・ミュグレーといったデザイナーが登場し、「新しいクチュール」とも呼ばれるプレタポルテを展開しました。彼らの服は肩やウエスト、ヒップを強調した構築的なシルエットによって女性の身体を際立たせ、クラシックで洗練されたエレガンスを取り戻そうとするものでした。またカール・ラガーフェルドもクロエのために完成度の高い洗練された服を作り、プレタポルテでありながらクチュールに近い精緻さを持つコレクションを提示しました。こうしてプレタポルテの内部でも、クチュール的なエレガンスを復権しようとする潮流が力を持つようになります。
しかし、まさにその時期に川久保玲と山本耀司がパリに登場します。彼らの服は、モンタナやミュグレーのような身体を強調する構築的な服とはまったく異なるものでした。膨らみのあるゆったりとしたシルエット、墨のように深い黒、非対称に切り取られた形、穴の開いたセーターや不規則な裾線など、彼らの服は従来の「完成された服」の概念を意図的に崩すものでした。布は折り重なり、寄せ集められ、まるで工芸品や造形物のような印象を与えます。その姿は、身体の美しさを強調する服というよりも、衣服そのものの構造や存在を問い直す実験のようでした。
この対立は単なるデザインの違いではなく、ファッションの理念そのものをめぐる闘争でもありました。一九八三年頃になると、パリのファッション界では明確に二つの立場が対峙するようになります。一方にはモンタナ、ミュグレー、ジャン=ポール・ゴルチエ、アズディン・アライアなどが代表する「新しいクチュール」があり、もう一方には三宅一生、川久保玲、山本耀司が代表する「反クチュール」の立場がありました。前者は身体の曲線やセクシュアリティを強調しながらフランス的なエレガンスを継承するものであり、後者はその価値観そのものを問い直す存在でした。
とりわけ川久保玲のコレクションは、フランスのファッション観に対する根本的な挑戦として受け止められました。彼女は形のない大きな黒いコートドレスや非対称のジャケット、位置のずれたラペルや袖など、既存の服の構造を解体するようなデザインを提示しました。モデルはほとんど化粧をせず、下唇だけに青い色をのせてランウェイを歩きます。それは単に新しい服を見せるショーではなく、「美しさとは何か」という問いそのものを観客に突きつける舞台のようでした。
そのなかでも特に強い衝撃を与えたのが、黒という色の使い方でした。西洋文化において黒は長いあいだ喪や死、悲劇を象徴する色として理解されてきました。「ブラックリスト」や「ブラックマーケット」といった言葉が示すように、黒には否定的な意味が付与されることが多くあります。そのため、川久保玲や山本耀司が見せた墨のような黒のコレクションは、多くのフランスのファッション関係者にとって暗く、脅威的なものとして映ったのです。
しかし思想史の観点から見ると、黒はしばしばブルジョワ文化への抵抗の象徴として用いられてきました。十九世紀のダンディたちが黒を身にまとったこと、戦後パリのボヘミアンが黒いセーターやズボンを好んだこと、さらにビートニクやパンクのスタイルにも黒が多く使われたことはよく知られています。つまり黒は単なる色ではなく、既存の社会秩序や美の規範に対する批判の象徴でもあったのです。
山本耀司自身も、ファッションを社会的地位や富の誇示のための装置として使う考え方に対して闘う意識を語っています。彼にとって服とは、富や美しさを誇示するものではなく、むしろそうした価値観に対抗するための表現でした。この意味で彼らの服は、単なるデザインの革新ではなく、ブルジョワ的な美の価値に対する思想的な反抗でもあったと言えるでしょう。
このように見ていくと、一九八〇年代初頭にパリで起きた出来事は、単なるファッションの流行の変化ではありませんでした。それはフランスのファッション文化の内部で、「クチュール」という伝統的な価値と、それを解体しようとする「反クチュール」の思想が正面から衝突した瞬間でもありました。そして日本人デザイナーたちは、その闘争のなかで単なる外国人デザイナーではなく、既存の価値体系を揺さぶる革新的な存在として認識されていったのです。
トップへ戻る