第14回:日本人デザイナーによる挑戦の限界 - 衝撃はあったが、パリは動かなかった
これまで第10回〜第13回で見てきた通り、川久保玲と山本耀司は「反クチュール」「非西洋」「女性」という周辺的な立場に身を置きながら、「クチュール」「西洋」「男性」という中心的ポジションを占めていた当時のパリの支配的デザイナーたちに対し、ラディカルな転覆戦略によって挑戦しました。とりわけ、ディオールや当時勢いを持っていたクロード・モンタナ(英語版Wikipedia)らの身体強調的な美学に対し、彼らはゆったりとしたシルエットや非対称性、黒を基調とした表現によって対抗しました。
この衝撃について、イギリスの新聞『ガーディアン』は「興奮と恐怖のようなものが西洋に広がった」と報じ、ジャーナリズムはパリ・ファッションの終焉を警告しました。彼らの服は、従来のファッション理解の根底そのものを揺るがすものであり、身体と衣服、さらにはジェンダーの関係に対する再考を促す契機となりました。
しかしながら、このような激しい挑戦にもかかわらず、パリのファッション・システムそのものが崩壊することはなく、フランスのクチュール・メゾンの支配的地位は維持され続けました。むしろ、一九八〇年代半ばになると、日本人デザイナーによるモノクロでルーズなスタイルは次第に勢いを失い、アズディン・アライア の身体にフィットする衣服や、ジャン=ポール・ゴルチエの装飾的なデザインが再び注目を集めるようになります。結果として、「パリの終焉」は現実のものとはならず、パリは現在に至るまでファッションの中心地であり続けています。川久保や山本もデビュー後、パリを去ることなく今日まで毎年コレクションを開いています。
この現象は、ピエール・ブルデューの「場」の理論によって理解することができます。ブルデューによれば、ファッションの「場」において新規参入者は既存の支配層に対して挑戦を行いますが、その挑戦はあくまで「ゲームのルール」を共有した上でのものであり、場そのものを崩壊させる真の革命には至りません。支配者(正統派)と挑戦者(異端派)は対立しつつも、「この争いの場は価値ある舞台である」という暗黙の合意、すなわちドクサを共有しているため、結果として場の構造は再生産され続けるのです。
さらに重要なのは、この場の安定化がデザイナー同士の力関係だけによって維持されているわけではないという点です。ファッション・ジャーナリストや編集者、批評家といった媒介者は、新聞や雑誌を通じて評価や言説を形成し、日本人デザイナーの作品を「衝撃」や「異質性」として位置づけることで、その挑戦を制度の内部に回収し、意味づけし直す役割を果たしてきました。
以上のことから、川久保と山本の実践は、パリのファッション界に対して一時的な動揺をもたらしたものの、その深層構造を覆すものではなかったといえます。むしろ彼らの挑戦は、新たなスタイルや価値を導入することで、既存の制度を更新し、結果的にその持続に寄与する契機として機能しました。したがって、日本人デザイナーの「パリ進出」は単なる成功物語としてではなく、制度と前衛の複雑な関係の中で再検討される必要があります。
そして次に問うべきは、こうした挑戦がどのように語られ、評価されてきたのかという問題です。すなわち、メディアや批評がいかにして日本人デザイナーの「成功」や「衝撃」を構築してきたのかをみていきます。
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