第3回:「見られる日本」――フーコーと帝国のまなざし
ここで少し視点を変えてみましょう。私たちが美術館で作品を見るとき、あるいは展示会で文化に触れるとき――その「見る」という行為自体が、すでに社会や権力と深く関わっているとしたらどうでしょうか。
哲学者 ミシェル・フーコーは、20世紀に社会学や文化研究に大きな影響を与えた思想家です。彼は「まなざし(gaze)」という概念を通じて、権力がどのように働くのかを説明しました。たとえば『狂気の歴史』(1961)では、狂気が「隔離」されるだけでなく、見世物として「見られる存在」となった過程を描いています。また『臨床医学の誕生』(1963)では、病気を「身体の内部に潜むもの」として可視化する“医療のまなざし”が誕生したことを論じています。さらに『監視と処罰』(1977)では、パノプティコンと呼ばれる監獄の仕組みを通じ、中央の監視塔からすべての囚人が「常に見られている可能性」を意識させられる状況を分析しました。フーコーにとって「まなざし」は単なる観察ではなく、秩序をつくり、人々を分類し、支配する装置そのものだったのです。
この視点から19世紀の国際博覧会を見直すと、日本の工芸品や着物姿の女性が展示されたことは、単なる文化交流ではなく「帝国的なまなざし」による可視化の一環だと理解できます。展示は日本を“見せる”と同時に、“見られる日本”をつくり上上げました。そこでは、西洋が東洋を観察し、分類し、知識として体系化することで、権力関係が強化していたのです。
同様の「まなざしの装置」は、パリのオートクチュールの創設にも存在しました。西洋の収集家や画家、作家たちが日本美術や着物に関心を寄せ始めたのとほぼ同時期に、シャルル=フレデリック・ウォルト、ジャック・ドゥーセ、ジャンヌ・パキャンらがパリのラ・ペ通り(Rue de la Paix)にメゾンを開きました。これらのメゾンには、コレクションを披露する豪華なサロンがあり、顧客はモデルが着用する最新の衣服を目の前で見ることができました。柏木博(2000:34)によれば、サロンはモデルたちが常に顧客の「まなざし」にさらされる消費空間でした。そしてこの時期に「理想的な身体」や「均整の取れたプロポーション」という概念が社会的に構築され始めたことは、現代における広告を通したイメージ形成と類似しています。さらに、オリエンタルなスタイルでモデルを着飾ることで、サロンは「異国文化を見せる」空間として演出され、国際博覧会と同様に「東洋」が見世物化されました。こうして、オートクチュールのサロンもまた、西洋文化の優位性を象徴的に示す装置として機能していたといえます。
19世紀末にはルイ・ゴンス(Louis Gonse,1883『日本美術』)やサミュエル・ビング(Samuel Bing,1888『芸術日本』)といった著作が次々に出版され、学術的な「日本学(Japanology)」の基礎が築かれていきました。こうした知識の体系化もまた、西洋による「可視化と管理」と捉えることができます。ジャポニスムの華やかな影響の背後には、このように「見せる」と「見られる」をめぐる複雑な関係がありました。私たちが美術館で浮世絵を眺めるとき、その視線は19世紀の帝国的な展示の延長線上にあるのかもしれません。美しい交流の物語と同時に、そこに潜む力の作用にも目を向ける――それが、フーコー的にジャポニスムを読み直す面白さなのです。
参考文献
柏木博(2000)『ファッションの20世紀: 都市・消費・性』、東京:NHKブックス
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